じいちゃんの被爆体験

terasみはぽんた

2009年08月09日 12:17

長崎平和公園での式典をテレビで見ながら、

記事を書いてまーす。



前記事で、じいちゃんのことに少し触れましたが、

「じいちゃんから聞いたこと、一度、文章にしておこう!」

と思い立ち追記しています。





当時、じいちゃんは三菱に勤めていたので、

64年前の8月9日も、

三菱の工場で働いていました。



11時02分。

ピカっとものすごい光りがきたかと思ったら、

ものすごい熱風が襲ってきたそうです。



その時、

じいちゃんは咄嗟に、

机?作業台?の下にもぐりこみました。



どれくらいたったか…。



気がついて、

逃げ込んだ台から出てみると、

工場は無残にも崩れ、

さっきまで一緒に仕事していた仲間がたくさん亡くなっていたと言います。


じいちゃんは、

とっさに下に潜りこんだのが幸いしたのです。




それでも、

全身にガラスが突き刺さり血だらけ。




「家に帰らんと」と、

力をふりしぼって、

焼け野原を丸2日かけて、

歩いて家に辿りついたそうです。




「帰ってこない」ととても心配していた家族は、

血だらけになって帰ってきた時には、

本当にホッとしたそうです。



一方、父は弟と祖母と疎開していて無事だったのですが、

長崎がスゴイことになっているらしいと聞き付け、

数日後、祖母と一緒にかけつけたそうです。



汽車は途中までしか走っておらず、

そこから市内を歩いて横断したそうですが、

中心地に近づくにつれ、

建物という建物はほとんど崩れ、

人は倒れ焼け焦げ、

ニオイが立ちこめ、

それはそれは地獄のようだったといいます。



おかげさまで、

じいちゃんは94歳まで長生きしました。



それでも、

体に刺さったガラスを取るため、

何度も何度も手術しました。


ところが、

私がお葬式の時見たあの首のガラスだけは、

「場所がむずかしい」

と医者に言われ、

そのままにしていたんだそうです。


そういえば、

寒い時や、梅雨時になると、

「チクチクする」

と言ってったっけ。



これまでこんな風に話したことほとんどなかった~。



自分たちは体験してなくても、

「平和への思い」を共有して、

体験した人の話や思いを伝えたり、

自分にできることをやることが

私たち世代の役目じゃないのかなと思うワケです。




じいちゃん、ありがと!

ちゃんと子どもたちを含め次世代へ、

「平和への思い」伝えますから。

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